最終更新日: 2006-10-22(公開日: 2006-10-22)

テクスチャ・空間・サバイバル

スティーブ・ライヒ (久保マサキ 訳)
原題: TEXTURE-SPACE-SURVIVAL
出典: Perspectives of New Music, Vol. 26, No. 2 (1988), p.272-280.

これからするお話は、自分がいままでどうにかやりくりしてきたということでもあるので、あくまでわたし個人の視点からお話したいと思います。

テクスチャ

多声的/単声的

新ハーバード音楽辞典で「テクスチャ」ということばを引くと、次のように書いてあります。「…作品のテクスチャは、複数のメロディーラインの組み合わせから構成されるように知覚される場合、多声的あるいはポリフォニックである、と言われる。おもにコードの連続からなる作品がそのように聞こえる場合、和声的(chordal)もしくはホモフォニック(homophonic)なテクスチャを持つと言われる」。この伝統的な区分に従うならば、わたしの作品の大部分は、ことテクスチャに関しては、多声的であることは疑いないでしょう。西洋音楽史のなかでもっとも利用価値のある情報が存在すると思うのは、1200 年から1750年の間、つまり対位法の時代です。西洋以外の音楽でわたしが多くを学んだのは、西アフリカとバリ島の音楽で、どちらもほんらい多声的な音楽です。それに、彼らの対位法は、わたしたち西欧の対位法とは全く独立に発達したものであって、対位法はヨーロッパ人だけが発明したのだと考える神話は、単なる俗説にすぎないのです。

テープループに取り組んでいた1965年に初めて発見した手法を「フェイジング」と呼びました。のちの1967年には、この手法をライブパフォーマンスへ応用することになります。実際には、「フェイジング」というのはユニゾンでカノンを作曲するというプロセスのことです。そこでは、主題は短く、主題とその応答の間にあるリズムの間隔は可変です。

ご存知のように、カノンは13世紀にはじまった手法です。カノンを使った作品は中世から今日にいたるまで見られます。手法としては確固としたものですが、それを使った音楽がどのような音になるかということは何も決まってはいません。『夏は来たりぬ』や『音楽の捧げもの』、バルトークの『ミクロコスモス』やウェーベルンの交響曲 Op.21にいたるまで、カノンは使われています。プロセスは基本的に同じですが、そこから生まれる音楽はきわめて多様です。

わたしの作品はカノンをもとにしています。無限カノンを用いたのですが、これは1968年に書いたエッセイ『ゆるやかなプロセスとしての音楽』(Music as a Gradual Process)でのべたことの具体例です。1965、66年に書いた最初のテープ音楽『イッツ・ゴナ・レイン』(Its Gonnna Rain)と『カム・アウト』(Come Out)では、一つのテープ・ループがしだいに自分自身と2、3声位相がづれてゆきます。つまり、リズム的な距離がゆるやかに変化することでカノンがつくられるのです。この手法を用いた最初のライブ作品は、1967年の『ピアノ・フェーズ』(Piano Phase)です。この作品では、二人のピアニストが同一の短いくり返しのパターンをユニゾンで演奏しはじめて、ひとりはテンポを固定したままで、もうひとりはゆるやかに、16分音符一つ分先に進むまでテンポを早めます。つぎに後者はそのテンポを保持し、また前者とユニゾンになるまで先に進むというものです。つまり、各「位相の場所」(phase position)はわずかに異なるリズム間隔を持った短いユニゾンのカノンなのです。『ドラミング』(Drumming) 以降、1971年には、フェイジングの手法をつかうことをやめましたが、そのかわり他の方法を発見しました。その方法とは、ゆるやかに音符を休符にーサウンドをサイレンスにーおきかえてゆきながら、カノンを構築するというものです。わたしの作品のカノン的構造が意識されるようになるのは、もっと後の『テヒリーム』(Tehillim)のころですが、それは主題が他の作品と比べても長く、メロディー重視だったからだと思います。基本的なやり方は同じですが、『テヒリーム』で新しくとり入れたものとしては、単声的セクションがあります。同じことは『砂漠の音楽』(The Desert Music)についても言えます。これらの作品が単声的側面をもつのは、テクストを設定したことによります。『テヒリーム』ではヘブライ語の詩編の一部を、「砂漠の音楽」ではアメリカの詩人で医師のウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩の一部を用いました。これらの作品に続き、1985年からこんにちに至るまでのあいだ、基本的には以前のように多声的テクスチャーを用いています。

1982年には「カウンターポイント」シリーズをつくりはじめました。最初に書いた曲は、フルート、アルトフルート、テープもしくは11のフルートとアルトフルート、ピッコロのための『バーモント・カウンターポイント』です。この曲は、そもそもフルート奏者のランサム・ウィルソンからのフルートの協奏曲を書いてほしいというリクエストに応えて書いたのですが、ソリストとその伴奏という構想に魅力を感じなかったわたしには、協奏曲を書く気はありませんでした。じつは『バーモント・カウンターポイント』には初期の作品、たとえば『バイオリン・フェイズ』のやり方に通じるところがあります。『バイオリン・フェイズ』では、バイオリン奏者があらかじめ録音された自身の演奏テープに対して演奏する方法をとったところなどがそうです。

全体のテクスチャは複数の同じ音色のみからできており、そのテクスチャがリスナーの聴く様々なパターンを生み出し、多声的おりもの全体を浮き彫りにします。すなわち、『バイオリン・フェーズ』や『ピアノ・フェーズ』といった初期の作品は、複数の同一楽器のためにかかれたということです。たとえば『ピアノ・フェーズ』でわたしがピアノを演奏し、あなたがハープシコードを演奏したとすると、異なる音色が全く混ざり合うことなくただ位相がづれるのが聞こえるだけで、仮にピアノやハープシコード、シンセサイザーを2台使った場合のようには多声的音のおりものを生み出すことはできません。したがって、同じ音色をもつ複数の同じ楽器が初期の作品においては、音響上必要であり、それがあってはじめて全体の多声的なテクスチャや、どこにダウンビートがあるのかわからない(2つ以上のおなじダウンビートが曲中つねに同じ音色で鳴り響くため)という曖昧さを生み出すことができたのです。

こんにち80年代でも、たとえばリチャード・ストルツマンのために書いた複数のクラリネットとバス・クラリネットのための『ニューヨーク・カウンターポイント』では、同じ原則がより発展したメロディー・パターンとハーモニーの展開をともなって生かされていています。現在は、複数のエレクトリック・ギターとエレクトリック・ベースのための『エレクトリック・カウンターポイント』に取り組んでいて、これはパット・メセニーがテープに対して演奏することになっています。

テクスチャには「重い」と「軽い」がある

ハーバード音楽辞典(1969年版)によると、シベリウスのシンフォニーは「重く」て、ストラヴィンスキーの『兵士の物語』は「軽い」と記述されています。この考えに従うなら、ジョン・アダムズの『和声学』(Harmonielehre)は「重く」、わたしの『セクステット』は「軽い」ということになるでしょうか。

この線で考えるとおのずと、作曲家はそれぞれいかにオーケストラを扱うかということにいきつきます。まず第一に、サイズに関して。ご存知のように、一流のオーケストラにはたいてい18人かそれ以上の第一バイオリンがいます。この壮大な弦楽部門は、シベリウスやマーラー、ブルックナーには適当でも、わたしには大げさすぎるように思います。試行錯誤のすえだした結論は、オーケストラ曲を書く場合、第一バイオリンは12人以上は必要なく、弦楽部隊全体としては48人くらい、つまりロマン派のオケーストラに対して古典派のオーケストラのフルサイズくらいでちょうどよいということです。オーケストラ作品はすべて室内楽バージョンをつくりますが、これには二つの理由があります。まずひとつ目は、室内楽のアレンジメントは音がよくて、オリジナルのフルオーケストラ版よりもいいとも言えるということがあります。もうひとつの理由は、室内管弦楽団、とりわけフランスのアンサンブル・アンテルコンタンポラやオランダのシェーンベルク・アンサンブル、ブダペストのグループ180、イギリスのロンドン・シンフォニエッタやドイツのアンサンブル・モダンなどはわたしの作品に興味を持ってくださるので、オーケストラ作品を演奏するには室内楽版が必要だということです。作曲家にとって、自分のオーケストラの大きさを発見することはとても大切なことです。「重い」とか「軽い」といった感覚でのテクスチャーを実現する意味でも。

透きとおったようなテクスチャーを実現したいという思いから、オーケストラや室内楽団の座席をアレンジするようにもなりました。わたしのオーケストラ作品の多くでは、マリンバやビブラフォンといったマレット奏者が曲中通して演奏しており、これらを指揮者の真ん前に配置しました。これは何も、「パーカッショニストのリベンジ」のためだけではなく(それも意味があることかもしれないけれど)、そうではなくて仮にパーカッショニストが通例の場所で、指揮者から40フィートも60フィートもはなれたところでキビキビとテンポを刻み続けるとすると、音響上音は遅れて到達するので、オーケストラは指揮者からのビートを聞き、さらにマレット楽器からの拍子も聞くことになります。そこでマレット楽器を指揮者の真ん前に配置することによって、オーケストラ全体が一つの統一されたテンポを見聞きするようになります。また『砂漠の音楽』のような作品で弦楽隊が2,3のパートに別れてそれぞれ別々のリズムで繰り返しパターンを分奏する場合には、弦楽隊を配置しなおす必要があることがわかりました。というのも、オーケストラの弦楽奏者は自分の前にいるリーダーについていこうとする傾向があり、一致しないリズムの中で演奏するとなると弦楽隊が混乱するのは目に見えているのです。バルトークの『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』のように、弦楽隊を2、3 の小グループに分けて配置することで各弦楽グループは自分のグループのリーダーについてゆくことができ、その結果各多声的な声は独立していられます。パワーと配置の点で、自分の音楽的アイデアをもっともうまく実現する自分の身の丈に合ったオーケストラをつくるために、作曲家はすべからく、自分のニーズを念頭においてオーケストラを考え直すとよいでしょう。

空間

空間とは何か?

この講演をたのまれたとき与えられた3つのトピックのうち、「テクスチャ」と「サバイバル」は覚えていたのですが、3つ目がどうしても思い出せませんでした。思い出そうと記憶をリフレッシュしているうちに、それが「空間」であることに思い当たりました。ハーバード音楽辞典の1969年版と1986年版の両方をいま一度ひいてみましたが、「空間」という語はどちらの版にも見当たりません。そこで、いまいちど記憶をたどり、3つの音楽上の空間を論じるよう言われたことを思い出しました。その3つとは、(1) ガブリエーリやヘンリー・ブラントにみられる物理的空間、(2) 非西欧音楽における儀礼的空間、(3) 複数のスピーカーを通じてホールのまわりを動く音において見られるような電子的空間、でした。

物理的空間

1957年ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で、ストラヴィンスキーの『カンティクム・サクルム』初演のオープニングとして演奏されたガブリエーリの作品を楽しんだことを思い出します。代わるがわる演奏するブラス・クワイアは、明らかにガブリエーリがとくにこの教会を頭に思い描いていたことを思わせます。ところで彼はモノラル録音の失敗者と言えるでしょうか?わたしは違うと考えます。ヘンリー・ブラントについては、かれの音楽について全く知らないわたしには何とも言えませんが。オーケストラの配置について話すことは、また空間について話すことでもあると言えるでしょうか。わたしの音楽にとても大切なことは、演奏家がお互いそばに座ることで互いの音がよく聞こえるということです。これとは反対に、たとえばケージの音楽では、空間的に離れていることが求められ、リズムの一致は求められていません。そういう意味で「空間」とは、演奏において実践上のファクターではあるが、作曲においては周辺的な問題であるように思います。

儀礼的空間

儀礼的空間で思い出すのは1970年のガーナへの旅です。かの地に滞在中、わたしはガーナ・ダンス・アンサンブルのメンバーにつき、学びました。どんなアンサンブルだったか?アンサンブルは少なくとも5つの異なる部族出身の、もとはガーナ・ダンス・アンサンブルのある首都アクラから遠くはなれたところに住んでいたミュージシャンで構成されています。1967年以前、彼らはそれぞれ自分の村で生活し、地元の首長にミュージシャンとして雇われていました。1967年、エンクルマが政権につき、ガーナ全土をおさめるアクラに政府を設立しました。近代国家の誕生です。しかしこの西洋的独立国家において、地方村の族長は名目上のリーダーに過ぎなかった。金もなければ権力もなかったのです。これが何を意味するのか。地元のミュージシャンたちは、ミュージシャンを続けることはできても、もはやプロとしてはやっていけないということです。族長に雇われる代わりに、チョコレート工場などで日雇いの仕事をして自分やその家族を養わなくてはなりませんでした。幸運にも一流の演奏家になれたものやアクラで政治的コネのあるものは、いまいちどプロのミュージシャンになることができましたが、こんどはアンサンブルとしてヨーロッパやアジア諸国を巡業し、3日間から20分に縮められた音楽とダンスを、村からプロセニウム・ステージにとってかわった音楽空間で演奏するのでした。つまり、空間の変化が音楽も変えてしまったと結論づけられるのでしょうか。そうとは言えません。ここで相手にしているのは、社会組織と経済が、現実の要因として完全にシフトしたという現実です。その現実が、ステージに変化ををもたらし、ところてん式に、縮められたバージョンの曲をもたらしたのです。空間は、ここではより深刻な文化的変化に対して2次的であるように思えます。

電子的空間

第3の「空間」である電子的空間はみなさんおなじみのものでしょう。すくなくともモノラルからステレオへの移行を体験した年の人ならそうでしょう。耳は2つあり音源をつきとめる能力を持つがゆえ、1つではなく2つスピーカーを使うことで、電子的な音楽再現はわれわれが普段生で音を聞くのに近づきました。また、50年代のウ゛ァレーズから60年代を経て今日にいたる電子音楽において、複数のスピーカーを使ってホールじゅう音を移動することは作曲家の可能性の一つとなりました。しかし、わたしはその可能性を追求することはありませんでした。なぜならわたしが作曲する上では、リズム、ピッチ、音色がこの順番で主要な問題となるからです。エレクトロニクスを使用するのは主に音を増幅することで、増幅なしでは実現できないバランスを得るためです。したがって、女性の、ビブラートはないがはっきりしたかつ細かいリズムのある声がオーケストラと同じくらいの大きさのアンサンブルの中で聞くことができるのは、アンプのおかげです。スピーカーをどのように配置するかということも聴衆がよく聞こえるかどうかを左右しますが、配置をするのは作品を実現するためにただその場しのぎでやるというだけで、作曲上のマテリアルであるとかテクニックであるということはありません。

まとめ

物理的空間はまちがいなく、音響上パフォーマンスをいっそうよくしたり、損なったりすることがありますが、作曲にはそれほど重要ではないでしょう。特定の空間に限定される作品は、限定されているにすぎません。それよりも、いかなる場所でもうまく聞こえる作品を書こうとすることの方がずっと価値があると思います。

サバイバル

わたしの来歴

子供の頃はピアノのレッスンにかよっていました。14歳のときにはじめて「ブランデンブルク・コンチェルト」「春の祭典」、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ケニー・クラークなどを聞き、スネア・ドラムとドラムセットをローランド・コロッフに習うことにしました。コーネル大学では、1953年から1957年の間、主に後期ウィットゲンシュタインの哲学を研究し、音楽はウィリアム・オースティン教授の元で学びました。1957年にコーネル大学を卒業したのニューヨークに戻り、作曲家でジャズのミュージシャンでもあるホール・オーバートンに個人的について作曲を学ぶようになりました。1958年にはジュリアード音楽院に作曲科の学生として入学し、ウィリアム・バーグスマとヴィンセント・パーシケッティに学びました。1961年にはサンフランシスコのベイエリアに移り、ミルズカレッジでダリウス・ミヨーやルチアーノ・ベリオのもとで学ぶようになりました。1963年にはミルズカレッジで修士号をとり、正式な西洋の教育を終えました。ちょうどこのとき、これからどうやって生きてゆけばいいんだろう、という問題が生まれました。

はっきりと感じていたのは、これ以上アカデミックな環境ではやりたくないということです。ミルズカレッジでTAをしたり、サンフランシスコのコミュニティスクールで理論や作曲を教えた数少ない経験から分かったことは、わたしが作曲家としてまさに必要としているエネルギーが、生徒のために使い果たされているということでした。それに、よい教師であるためにはそのエネルギーを消費しなくてはならず、限られたエネルギーを他人を教えてなおかつ自分の作曲にさくのは無理だと思ったのです。さらに明らかだったのは、教えるということは作曲するのとずいぶちがった才能で、わたしの最良の教師であるホール・オーバートンやヴィンセント・パーシケッティは必ずしも最良の作曲家ではありませんでした。たとえばベリオのような一流の作曲家から学んだことは、自分が作曲家として何者であるかということではなく、彼がいかなる作曲家であるか、ということでした。当時はそれが面白かった。でもそれはよい音楽教育の基礎とはならないと今では考えています。基礎的なことは、教師が、生徒がそれぞれのシチュエーションで必要としている情報を与えてやれるということです。こういう教師はある意味、自分を消し、教える生徒になりきることができるし、大作曲家がもっているような特定の作曲方法にたいするひとりよがりな思い込みがない、という理由で偉大なのです。ともかく、わたしはアカデミックな仕事を追求するのは無理ではないかと思ったのです。

では、どうしたのか?1963年、わたしはサンフランシスコでイエローキャブ会社に職を得ました。この手の仕事をしてもわたしの心には自由が残り、作曲に集中することができました。それに実のところ、大学で理論や作曲の講師をするよりも身入りがよかったのです。サンフランシスコに住んでいる間、家では作曲をし、サンフランシスコ・テープ音楽センターやサンフランシスコ・パントマイム座劇場で作品を発表しました。その中には、タクシーのなかで録音した音の断片を用いてつくったテープ音楽もあります。1964年にはタクシードライバーを辞め、郵便局の仕事に移りましたが、以前ほど面白い仕事ではありませんでした。それでも、収入はおなじくらいで、作曲の邪魔にならないということも変わりませんでした。1965年にはベイエリアを去り、ニューヨークに戻ってきました。

1966年のニューヨーク。わたしは、二人の友人、ジュリアード出身の作曲家兼ピアニストであるアート・マーフィーと、同じくサンフランシスコからニューヨークへやってきた木管楽器奏者のジョン・ギブソンとともに、自分のアイデアをリハーサルし始めました。当時はまさか、これが自分のアンサンブルにつながり、そのおかげで自作を演奏して食べていくことができるようになるとは想像すらしていませんでした。1966年、わたしにはただ、自分がためしてみたい音楽のアイデアと、自分がやっていることに興味を持ってくれる友人があるだけでした。60年代半ばニューヨークにいるあいだ、今一度いろいろなつまらない仕事もしました。1967年にはアンサンブルが大きくなり、作曲家兼ピアニスト兼指揮者であるジェームズ・テニーが仲間に入り、テニー、マーフィー、ギブソンとわたしで、最初の大がかりなコンサートをニューヨークのパークプレイスギャラリーで開きました。1967年3月のことです。ギャラリーでは、ソル・ルウィット、ロバート・スミッソン、ロバート・モリスといった作家の作品が展示されていました。のちにミニマルアートと呼ばれるものです。コンサートには有名な作曲家はほとんどみにきませんでしたが、ロバート ・ラウシェンバーグやソル・ルウィット、ロバート・スミッソン、リチャード・セラといった多くの画家や彫刻家たちが来てくれました。このコンサートの成功をきっかけに自分のアンサンブルで自作を演奏する招きを受けるようになり、1969年にはホイットニー美術館で、1970年にはグッゲンハイム美術館で演奏し、メンバ−にピアニストのスティーブ・チェンバースや、作曲家/キーボード奏者であるフィリップ・グラスを迎えるまでに成長しました。

1970年から1971年の間は、それまに書いた中で一番長い作品にとりかかっていました。その曲は、わたしのドラム奏者としてのバックグラウンドからタイトルをつけた曲でもあります。またアンサンブルが5、6人から12人にまで成長した曲でもあり、パーカッション奏者のルス・ハーテンバーガー、ボブ・ベッカー、ジェームズ・プライスを迎えました。彼らは今でもわたしのアンサンブルで演奏しています。1971年12月、『ドラミング』の世界初演をニューヨーク近代美術館(MoMA)で発表しました。ちょうどこの頃、イギリス、ドイツ、フランスなどヨーロッパでコンサートのスポンサーをしてくれるところに手紙を出しはじめ、1971年には初のヨーロッパツアーを行いました。同じ年、マース・カニンガムダンス基金のジーン・リグに助けを借りて、ライヒ音楽基金を設立しましたが、これは全米芸術基金(National Endowment for the Arts)やニューヨーク州芸術委員会から資金援助を受け、アンサンブルの音楽家たちに旅費やリハーサル費を支払えるようにするためでした。1972年にはとうとう、わたし自身びっくりしたのですが、36歳にしてはじめて、自分のアンサンブルで自分の曲を演奏しながら、作曲家として生計を立てることができるようになったのです。

そしていま1987年、まさに学校を終えようとしている若い作曲家たちは、わたしの個人史から何か役に立つことを得られるのでしょうか?わたしにはわかりません。1960年代は、いまよりずっと理想主義的で、愚かで、非現実的でした。1980年代の学生は、学校を卒業してから、経済的にどうやって何とかやっていくかということをとても心配しています。これはばかげた心配だといって見過ごすことはできません。それでもなお、あえていくつかの考えを、すこしは役に立つと信じて、述べておきたいと思います。

  1. もしあなたが、自分の作品に全人的にコミットしていないとしたら、演奏家や聴衆も同じであることに間違いなく気づくでしょう。
  2. もし人を教えるということが自分の貴重な時間とエネルギーを食い尽くしていて、それを作曲に使った方がよいと感じているのなら、それはおそらく間違いないのでしょう。
  3. あなたが若く、無名で、自分の作品をしかるべき方法で演奏してもらいたいと望むのなら、たぶん友人と連れ立って自分で演奏した方がよいでしょう。一度いい演奏をすれば次につながるし、だんだんと人はあなたが念頭においている本当のことを聴くでしょう。

ご清聴ありがとうございました。


久保マサキ (masaki at alum dot dartmouth dot edu)